幼少期


1970年8月 東京/渋谷区で生まれ

・絵心があると先生の推薦で小2から絵画教室に通いたくさんの賞を頂きました。
(自分の受賞運は小学生の頃で使い果たしたと思います。)
・小2から絵画教室に通い、途中からはサッカー部に夢中になり絵画教室は辞めてしまう。
サッカー部はずーっと補欠ながら高校まで続けていました。
・美術の道を志すきっかけになったのは、
高校2年の時に見た加藤周一「日本そのこころとかたち」
加藤周一さんの本を読むと今でもあの時の興奮がよみがえります。
・高2の夏休、寝袋と18きっぷで家出するかのように日本全国の美術館と映画のロケ地(尾道/大林監督作品)を訪ねる。
美術館で見つけた「岡本太郎」「モジリアーニ」「小磯良平」と大林監督の尾道3部作は、当時の僕に絶大な影響を残しました。


・当時は絵描きに憧れたが、美術館や日本各地を巡るうちに生活の中に根ざした工芸、特に染織に魅力を感じるようになる。
・高校2年からアートスクール(美大受験予備校)に通い、デッサンを学ぶ。
・2浪後、憧れていた多摩美術大学の染織デザイン科に入学
・多摩美に入学してからは、写真(新聞社やスタジオの撮影バイト)やキャンパスクラブ(大学生でミュージシャン発掘プロデュース)に夢中になる
・オートバイの免許をとってバイクを買ってから寝袋を積んで日本全国の美術館や工芸館巡りを再開、旅で知り合った方々から、ツーリングテントやバナー、ランタン、自炊方法を教えてもらってからはさらに行動範囲がひろがり、自炊ツーリングの日々。 北海道(アイヌ、染織美術館)、出雲の工芸館、沖縄(紅型、芭蕉布)等々、ほぼ日本全国を廻り職人の方々に話を伺う
・当時の僕は村上龍の特にエッセイを教科書がわりに読みふけっていました。

大学時代を思い返すと、たくさんの想い出がありすぎてまとめきれません。
その後の続きも、時間を見つけて追記していきます。

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幼少期は父親の社宅があった片瀬江ノ島と横浜で
小学生の頃は父親の転勤で大分県で
小学校6年の夏休み頃からは横浜で過ごす。
小学校の頃、担任の先生よりアドバイスを受け絵画教室に通い始める。

絵画教室では、今思うとちょっと変わった教え方をしてくれて
・下書きは水性ペンで、じっくり観察して、間違っても消さない事。
・パレットには12色全部の色を出しましょう
・色は3色以上を混ぜて自分の色をつくりましょう
今でも僕の原点になっています。
毎週土曜日午後の絵画教室。宮崎先生からのそんなアドバイス通りに好き勝手に絵を描いていたのですが、描いた絵を褒めてもらえると嬉しくて、その絵がコンクールに出品されて賞を頂けるとまた嬉しくて、の繰り返しでした。
この頃に受賞運を全て使い切ったと思える位、相当数の賞状やメダルを頂きました。

結局、サッカー部にも入り両立が難しく辞めてしまった小学4年生頃まで絵画教室に通っていました。
(あれだけ野球好きだったのに、何でサッカー部に入ったのか?今思っても不思議なのですが)

当時は自分の描いた絵の何処が良いのか?全く分からず描いていましたが、
今になって眺めてみると、ああ、、と思う事有。

中学生頃の一時期、叔母と一緒に暮らす時期がありました。
叔母は東京神田生まれで、当時織物の先生もしていました。おぼろげな記憶でしかないのですが、糸車に糸を巻いたり染料を鍋に溶かしたり、下絵を描いたり、何かの製作の手伝いをした記憶が有り、自分が染めを志したのも叔母の影響かもしれません。ちょうどこの頃に、中学の自由研究で草木染めクラブに入り、玉ねぎを煮込んでTシャツを染めた事があります。この頃が染めに興味を持つベースになっていたようです。

その後、高校2年までサッカーを続けたのですが、進路を選ぶ頃になってあの時の絵画教室のことが思い出されました。サッカー部での思い出は悔しい思い出しかなくて、、何でサッカーを続けていたのか?自分でも分からないです。背が低くて体力に勝るわけでも闘争心もなく、補欠部員の一人だった自分はコンプレックスの固まりでした。当時NHKで放送されていた、加藤周一が監修した「日本その心とかたち」という番組と、確か高校2年の夏休みの一人旅が美術を志すキッカケになりました。
寝袋をひとつと簡単な着替えだけ持って、ほとんど家出するかのように青春18切符で尾道に向かいました。

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